植物人間の従兄の死

Takenori自身がこの記事を読み終わるまでにかかった時間は約7分です。

スポンサードリンク


優し過ぎると、人は心を壊す。僕が従兄から学ばせてもらった、学びたくはなかった教訓だ。

今年の夏、僕は大好きだった存在を2つ同時に失くすことになった。

1つは、最後に言葉を交わしたのが僕が19歳のときだった従兄。

もう1つが、この約2年間を共に過ごしてお互い依存しあっていた甘えん坊のうさぎ。

今日の記事は前者の従兄について書こうと思う。

僕が、親や友人、そして想いを馳せる異性には素直に接しようと考え行動するようになったのは、この従兄の存在が大きい。

従兄の死というテーマと、大半が僕という一個人の思い出で構成されるブログ記事になるので、有益な情報や面白さを求めている読者の方は、別の記事を読んで頂ければ幸いです。

従兄の死と向き合う

従兄が植物人間となってしまった原因は、終ぞ判明することはなかった。

2016年7月に、植物人間となってしまっているせいで体の抵抗力が極端に弱っていた従兄が、肺炎を理由に亡くなった。

この従兄と言うのは、先日書いたブログ記事である「ある国では道に咲く全ての花の名前が共通だった」にて僕にアフリカでの体験を教えてくれた叔父さんの息子となるのだが。

親子共々、僕に与えるだけ与えて、僕からは何も得ることなくこの世を去ってしまった。

叔父さんと最後に言葉を交わしたのが17歳のとき。そして従兄と最後に言葉を交わしたのが19歳のときだった。

まだ10代だった僕でも、この2人がどれほどの価値あるものを僕に与えてくれていたのか、当時においても肌でヒシヒシと感じていた。

僕はこれまでの人生で、彼ほど優しく、そして包容力のある人物と出会ったことがない。

南国の国沖縄生まれの沖縄育ちで、ほんの少しだけぽっちゃりとした体系と、濃い髭後と、浅黒く焼けた肌と、何よりも笑ったときに見せる少年のような笑顔が印象的な人だった。

赤飯事件

僕がまだ小学校4年生だった頃。大阪に住む別の従姉の結婚式があった。まだ20代だった従兄もそこに招かれていたが、僕がその結婚式で覚えていることと言えば、従兄との悪ふざけのみだ。

結婚式の後に催された親族だけが集まる食事会の場で、僕は従兄と一緒にみんなの元に配られる前の赤飯の入れ物の中に、胡椒をありったけふりかけてやった。それも1つ残らず。中には魚の入れ物に入っているソースを一滴残らず入れてやった赤飯だってある。

まさか従兄も僕があれだけの量の胡椒を入れるとは思ってもいなかったのだろう。配膳係がみんなの元に赤飯を届けるのを、冷や汗ダラダラで見ていた。

もちろんそんな赤飯を食べようとしたみんなは異変に気付く。なんだこの赤飯は、と。

小学生というのは残酷で、僕は正直やり過ぎた感を瞬時に察知したが、「僕がやりました」とは言えず、でもみんなの反応が面白くて、笑いを堪え切れなかった。

もちろんそんな僕を見たみんなは僕が犯人だと思っただろう。しかし僕は「従兄がやれって言うからやった」などと嘘八百を言って、みんなから向けられる視線を従兄へと追いやった。

みんな、もういい大人だ。まさかもういい年の従兄がそんなことをするはずがないと思っただろうが、当の従兄が「僕がやるように言いました」等と言うせいで、この赤飯事件の犯人は従兄となり、全責任を負うこととなった。

胡椒まみれで、中にはソース味のする赤飯を、従兄は人数分食べることとなったわけだが。

流石にそんな従兄を見て小学生であった僕にも罪悪感が沸いたのか、赤飯の処理を手伝うことにした。

手伝うと言っても、美味しいはずのない、むしろ食べられないレベルにまでなっている赤飯を口にするのはどうしても無理だった。

そこで僕は、頑張って食べている従兄が食べやすいようにと味付けを変えることにした。味付けを変えると言っても、小学4年生がそんな粋なことを出来るはずがない。

胡椒はもう無理だと感づいていたので塩をかけてみたり、ソースの代わりにコーヒーフレッシュを垂らしてみたり、何かのスープのお汁を注いでみたりと、結局のところ余計口に出来ない食べ物へと変貌させてしまったに過ぎなかった。

そう、イタズラにイタズラを重ねただけ。それでも従兄は笑いながら、「美味しいよ」と言って食べていたのを僕は覚えている。

僕が調子に乗って赤飯に何をしても従兄が食べるもんだから、当時の僕としては従兄が本当に美味しいと思っていると思っていた。そんなわけがなかったと改めて思い知るのは、それから10年後の従兄との会話だった。

二十歳を目の前にして

何が理由だったのかは忘れたが、19歳のときにも僕は沖縄を訪れ、この従兄には大変お世話になった。

実を言うと、彼の存在が従兄だったのだと認識したのはこのときが初めてで、10年前の結婚式では「どこかのおじさん」程度にしか思っていなかったのだ。9歳の少年に従兄の相関関係を理解しろと言うのも酷な話だ。

あれから10年。それなりに成長した僕はと言うと、ようやく子供ではなくなったが大人と言うにはまだ早い、第二次微妙な年頃である19歳という日々を送っていた。

とは言え恵まれた学生生活を送れたおかげで、他人との適度な距離感の保ち方や接し方は心得ていたようで、10年前の赤飯事件を話しのきっかけにしてはようやく従兄だと認識した彼との会話も滞りなく交わすことが出来ていた。

有体に言えば、久しぶりに沖縄を訪れた僕を従兄は大層可愛がってくれ、また気を遣ってくれ、親類の元を訪れた際によく陥ってしまいがちな「退屈な時間」を過ごさずに済んだ。

13歳の中学1年生当時も夏休みに沖縄を訪れているのだが、このときの思い出はほとんど記憶から抹消されてしまっている。その理由を改めて考えてみると、このときは従兄と顔を合わせていなかったことが原因なのかもしれない。

このときにも従兄と顔を合わすことが出来ていたなら、彼との思い出をもっと残せていたのにと考えずにはいられない。

親類が住んでいるという理由から何度も沖縄を訪れたことがあり、その数ある沖縄滞在の記憶の中で最も記憶に残っている思い出というのは、日本最大の水族館である美ら海水族館に行ったことや、ジブリ映画でしか見たことのないような大きい肉や海老や野菜を使ったバーベキューである。

それらのイベントを体験したのが多感な19歳だったことと、そのどれもに従兄が関わっている為、亡くなってしまった従兄との所謂「思い出補正」というものも働いているかもしれないが、美ら海水族館に行ったことだって、バーベキューをしたことだって、他の誰かではなく従兄との出来事だということが、これだけ僕の記憶に強く残る理由だと思っている。

従兄には娘が1人と息子が2人いたが、その子供たちと同じかそれ以上に僕のことを可愛がってくれ、僕がほとんど得ることが出来なかった理想の父親像を垣間見せてくれたのもまた、この従兄であった。

それでいて、沖縄の離婚率が47都道府県で最も高い理由は出来ちゃった結婚の数が多いことと、出来ちゃう行為に関する下ネタといった、決して父親とは交わしたくないやりとりを従兄となら気兼ねなく交わせることも、19歳の僕には心地よかった。

もちろん10年振りの話題として出てきたのがかつての赤飯事件だ。「よくもあんなものを食べさせてくれたな」という従兄が見せるその人懐っこい笑顔が、僕の心を少年に戻してくれた。

目の前の植物人間は誰

「不況のせいで観葉植物の事業がうまくいってなくてノイローゼになってる。」

19歳のときの沖縄滞在から帰ってきて程なくしてから、母親からそのような電話があった。

ノイローゼになっているのは、少し前まで顔を合わせていた従兄だった。僕の沖縄滞在を少しでも楽しんでもらいたい、そう考えたであろう従兄は、自分が今大変な状況に陥っているという素振りは微塵も見せなかった。

観葉植物の事業は、叔父が残した事業だった。従兄にとっては実の父親が残した事業であっただけに、辞めるという選択肢を選ぶことが出来なかったのだろう。

それと同時に、うまくいっていない事実を中々家族に打ち明けられなかった従兄と、そこに見え隠れするのは男の意地や見栄といったものではなく、ただ家族に要らぬ心配をさせまいとする、彼の心の強さと優しさだったはずだ。

それから時は流れて、僕が次に従兄に会ったのは26歳になってからだった。

19歳のとき以来の、沖縄由来の旧盆のために訪れた7年振りの沖縄だ。流石に僕だってもういい大人になっていて、社会人で収入もあったため従兄に何か恩返しをしたいと張り切っていた。

しかしどこに行っても目当ての従兄がいない。そして誰も従兄に関する話を僕に振ってこない。まるで従兄の話題が昇るのを遮るかのような雰囲気さえ感じられた。

沖縄滞在の3日目に、どこか誰かに似ている女性が僕にやたら馴れ馴れしく話しかけてくる。馴れ馴れしくと言ってもそこにマイナスは要因は全くなく、なんとも包容力のある話し方と接し方で僕の心の壁を一瞬で破った女性だった。

その女性はなんと従兄の妹だというのだ。弟がいるのは知っていたし、従兄と同じくこの弟も僕の事をそれはそれは可愛がってくれる。

しかし妹が存在したことを26歳になるまで知らなかったとは、いかに僕が親類関係に関心がないのかを示す自分への戒めとなった。

その妹は東京へお嫁に出ていたのだが、盆ということもあり帰省していて、その妹と共に妹の兄、つまりは従兄に会いに行くこととなるわけだが、なぜかどこか浮かない顔をしていたのを今でも鮮明に覚えている。

僕はというと、「ようやく従兄に会える!」それだけの気持ちで胸がいっぱいだった。誰かに会えるのが楽しみ、という気持ちは久しく味わっていなかったし、自分でもこのような感情を抱けるのだと感動さえした。

ところが僕のそんな感動は、一瞬にして崩れ落ちる。

妹と共に辿り着いたのは、山の奥にある病院だった。妹の何か言いようのない雰囲気を感じ取っていた僕は、特に何を聞くでもなく、従兄に会うために着いた先がなぜ病院なのか、病院で従兄は何をしているのか、そういったことを口には出さずただ妹の後をついていくだけだった。

男の僕でも少し力を込めないと押せない重たい扉を何度も何度も押しながら、長い廊下を進んでいく。途中の部屋で目にする景色からは、およそ僕が送る日常とはかけ離れた世界が繰り広げられていた。

そして僕にある種の覚悟を抱かせるには、それだけで充分だった。

長い廊下の一番奥から二番目の部屋に、従兄はいた。目を開けてはいるが、どこを見ているのかわからない焦点の定まっていない目と、入院用の服を着ていてもわかる、およそ僕が記憶しているぽっちゃりとした従兄とは思えないほどやせ細った体の人間が、ベットの上に仰向けになって寝ていた。

「この寝ているのは誰なんだ?なんで妹はここに連れて来たんだ?ここにいれば従兄が病院の医師やそれに近い存在として巡回して来るのか?」

心からそう考えている僕がいた。

まさかベットで寝ているこの人間が、僕が会いたくて会いたくて仕方がなかった従兄だとは、とてもじゃないが思えなかった。

7年の歳月が過ぎているとは言え、あれほど可愛がってくれた人の外見を簡単に忘れてしまうほど、僕の心は荒んではいない。

妹は何を言うでもなく、ベットで寝ている人間に何かを語りかけては、手を握ったり、汗を拭いたり、持ってきた着替えやオムツを戸棚に入れていた。

なぜ従兄に会いに行くのにオムツが必要なのか。不思議で仕方なかったが、ようやく少しずつ理解してきている自分がそこにはいた。

なぜ、誰も従兄のことを口にしないのか。なぜ、沖縄に来た僕の元へ従兄が顔を見せに来ないのか。なぜ、こんな姿で独特な雰囲気を醸し出す病院の一室で寝たきりになっているのか。なぜ、目の前にいる僕と目を合わせないのか。

そういったことを理解するでもなく心に入り込んでくる情報をなんとか受け止めながら、僕はただ黙って、妹がすることを眺めているしかなかった。

半信半疑なのだ。目の前にいるのが従兄なのかどうかを知るために、妹に向かって「この人が従兄?」だとも聞けるはずもない。

ベットの横に備え付けられている棚の上に、小さい子供が書いたことが伺える絵が飾ってあった。子供らしい大小様々な大きさの字で、「パパ大好き」という文字と共に、従兄の2人目である息子の名前が書かれていた。

その絵を見た僕は涙が止まらなかった。今目の前で寝ているこの人が従兄なのだという現実を、それは僕に容赦なく突き付けてくる。色んな感情が一気に心を埋め尽くし、抑えきれなくなった感情が爆発した。

従兄の名前を口にしながら、寝ている従兄の体を僕はどこともなく触り、その存在を確かめる。

体はここにあるのに、心はどこかへ行ってしまっているかのようなその姿に、僕はもう何も考えることが出来なくなっていた。ただ、そこにいる従兄が与えてくる絶望と、その妹が泣く声だけが僕の心を支配していた。

病院はその立場上、患者の関係者が常識を超えるほど長時間病室に滞在することを容認出来ない。他の患者だっているし、訪問が可能な時間帯だって決められているのだから。

従兄の元を去らなければいけなくなった頃、ようやく少し落ち着きを取り戻していた僕は、妹にお願いして従兄と2人きりにしてもらった。

一方的な僕からの会話に、従兄はどう思っていたのだろうか。美ら海水族館に連れて行ってもらったこと。バーベキューをしたこと。あの赤飯事件のこと。

それらの思い出を語ることが出来ると思っていた人が、今目の前にいるのに。どうして、何も言ってくれないのか。あの頃のように笑顔を見せてくれないのか。

楽しみにしていた7年振りの沖縄訪問は、この出来事により僕の心に大きな衝撃を残すことになった。

死んでも尚与え続けることを辞めない従兄

植物人間だからと、絶望することはない。植物人間だって、出来ることがある。

植物人間となった従兄は、何も言わず何もしなくても、僕にたくさんのことを教えてくれた。

7年振りの沖縄訪問依頼、僕は毎年最低3回は沖縄を訪れるようになった。かつては楽しめるかもしれない期待を理由に沖縄へ行っていたが、従兄に会うことが主な理由となっていた。

いつ行ってもどこを見ているのかわからず、僕が何か話しかけても反応もせず、手を握っても握り返してすらこない。そんな退屈な男に、従兄はいつから、どうしてなってしまったのか。

従兄の母親が言うには、仕事が上手くいっておらず鬱気味になり、病院に通うようになったのが僕が19歳のときに沖縄に訪れた、その翌年からだったと言う。

そしてそれから数年の後に、ある日トイレに入ったきり全く出てこなくなった従兄をその母親が見に行ったときに、便座に座ったままぐったりとしている従兄を見つけ病院に連れて行ったが、結果的に植物人間となってしまった。

植物人間となってしまった原因はなんだったのか。僕は色んなことを考えては想像した。病院に通っていて薬も飲んでいたと言うからには、その線から疑ってしまうのも無理はないはずだ。たった1人の患者とは言え、救いを求めてくる人間は病院にとってみればお金を落とす種だ。

入院させることができれば、入院費用だって病院側に入ってくる。その為に数年をかけて従兄の体を植物人間となるように仕向けた。

他人からすれば、まるで漫画やドラマの世界だと思うだろう。しかし僕は本気で、このようなことを考えずにはいられなかった。それだけ、目の前にいる大好きな従兄の植物人間と言う状況と、理由が全くもって不明な原因とを、憎まずにはいられなかったのだ。

通っていた病院が植物人間となった従兄の入院を拒否し、仕方なく別の病院へ入院させないといけなくなったことを知ったことも、僕がこれだけ病院に対してマイナスな印象を抱く理由の1つだ。

当院に通っていた鬱病患者が植物人間となった、なんて事実を世間には知られたくなかったのかもしれない。後から聞いた話では、通っていた病院は従兄が植物人間となってしまったことに関して、「全く関係ない」の一点張りだったと、従兄の母親から聞いた。

従兄は、自身が鬱であることを受け止め、そして心から治療したいと思っていたはずなのに。その結果が寝たきりなんて、余りにも不憫過ぎる。

なんとか救い出したい気持ちから、従兄の元を訪れた際には美ら海水族館に行ったことやバーベキューをしたこと、赤飯事件のことを何度も何度も問いかけた。固まってしまっている体を少しでもほぐそうと、痩せ細った腕や足をストレッチさせた。

学生時代に培った、陸上競技における他人の体をストレッチさせるという技術が、まさかここにきて生きるなんて。ただそれだけのことで、陸上競技をしていたことやストレッチを教えてくれた人に対して感謝の念が沸いた。

そしてストレッチをしていると、固まっている体に走る痛みを感じ取っているであろう反応を、時折見せる従兄が確認できた。

「植物人間と言っても意思はある。喋ったり、体で表現することが出来ないだけ。」

そう考えた僕は、従兄が少し痛がろうとも回復したときに少しでも好きなように体を動かしてもらえるよう、ストレッチを続けた。会う日も会う日も同じ話題を繰り返し話しかけ、ストレッチも欠かさず行い、心から早く回復することを願った。

従兄の母親から時折かかってくる電話の会話で、従兄の症状は少しずつ回復してきており、それは僕のおかげだとも言ってくれた。

期待していた。来年には従兄と話せるようになるかもしれない。来年は無理でも再来年なら。その翌年なら。

そんな淡い期待を裏切るように届いた、従兄の死の報告。今年の7月に入ってすぐだった。亡くなったのは6月の終わり。僕に連絡することを躊躇したと従兄の母親は言った。もしかしたら、回復してきているという話も嘘で、本当は少しずつ死に向かっていっていたのではないだろうかと、僕は考えずにはいられなかった。

そしてそのことを従兄の母親は知っていて、それを僕に隠していたのではないだろうか。

もしそうだとしたら、僕はこの従兄の母親にも最大の優しさを感じずにはいられない。隠していたことを咎めるのではなく、自分の息子に近付く死を受け入れたくない気持ちと、息子の回復を願って止まない僕への思いやりあってのものなのは容易に理解出来る。

そりゃあそうだ。あの従兄を産んで育てた母親だ。優しくないはずがない。従兄の弟と妹と接していれば否が応でも伝わってくるその母親からの愛。叔父さんが選んだ女性なのだから。

でも、優し過ぎるというのは問題だ。叔父さんとその結婚相手である伯母さんの、優しさを一番強く引き継いだのが、亡くなった従兄だったのかもしれない。

その優しさ故に、自分のことよりも他人を優先した結果が植物人間なのだとしたら。

僕の記憶に残っている従兄との思い出が、全て嫌なことになってもいい。美ら海水族館に連れて行ってくれなくても良かったし、バーベキューをしてくれなくても良かったし、赤飯事件の犯人を肩代わりしてくれなくても良かった。可愛がってくれなくて良かった。ただ、生きていてほしかった。

置き去りにされた家族も、生涯その悔しさを背負って生きていかなければならない。事故で死ぬのとはわけが違う。

従兄は、残した子供たちの最も人間として成長する時期を、金銭面でも精神面でも何も出来ずに死んでいった。

一番下の息子が喋れるようになった頃に植物人間となり、それから息子が小学校に入学する姿を見ることが出来ず、背が伸びて自分の身長を早くも追い越した1人目の息子と並んで立つことも出来ず、自分の入院費用のためにと高校を辞めてアルバイトをすることになった娘に感謝の言葉も言えず、そしてそのような道を選ばせた原因が自分であることを責め続けて、いったいどれだけ悔しかったことだろう。

悔しくて涙を流すことすらできない体と自分を、どれだけ呪ったことだろう。愛する子供たちに何もしてやれない自分という存在を、どう思っていたのか。

いつ死ぬかともわからない人生を後悔しないように

優し過ぎると、人は心を壊す。

従兄がその身を以て僕に教えてくれたことだ。

それだけじゃない。したいことがあっても出来ない状況にならざるを得ない。そういう事態に陥ってからでは何もかもがもう遅い。だから、出来ることは出来るときにしておこう。

僕は、従兄に何も出来なかった。時間はある。お金だってある。それらを惜しみなく使いたいという気持ちだってある。でも、その対象である人がいなくなったのでは、もうどうしようもない。

幸い、薄いとは言え従兄と血の繋がった僕の母親はまだ生きているし、植物人間でもなければ心を壊してもいない。従兄のように優し過ぎない母親で良かったと、心からそう思える。

従兄の死があってから、少しでも親孝行が出来るようにと、それまで別々に暮らしていた母親と共に生活をするようになった。

きっと口には合わないだろうが、僕が作る料理を何も言わず食べる母親を見ていると、心が安らぐ自分がいることに気付く。ほっぺたの辺りが、従兄に似ている母親だ。

あと何回、こうやって一緒にご飯を食べられるのだろうかと、いつもそう考える。明日、母親が死んでしまうかもしれない。今日、僕が死んでしまうかもしれない。

いつそうなってもいいように、出来ることは出来るときにしておこう。

従兄と同じ血が流れている。それだけで僕は、強く生きていける。


スポンサードリンク

ヒトゴトの他のブロガー

スポンサ-ドリンク