もの凄く甘い世界平和論「お金のない世の中」

Takenori自身がこの記事を読み終わるまでにかかった時間は約4分です。

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小学4年生のとき、こんなことを考えたことがあった。

「どうして世の中にはお金なんてあるんだろう。」

その感情の裏側にあった、小学4年生(9歳)の考えをここに書いてみたいと思う。

消費税

小学4年生ともなれば、お金というものが人にとって、少なくとも生まれ育った日本において、どれだけ大切なものかということは既に理解していた。

学校が終わって家に帰ると、いつも100円が置かれている机があった。母親がお小遣いにと用意してくれていた100円だ。

その100円を持って、学校で遊ぶ約束をした友達の家や待ち合わせ場所へ向かう。

友達と合流して、学校の近くの駄菓子屋で100円分のお菓子を買って、自分の家や友達の家、はたまた学校や神社、山や川へと自転車を走らせては日々遊ぶだけの放課後を過ごしていた。

僕が小学4年生のときは、今のようにバカな政策の賜物である消費税8%というような民を粗末にするような日本ではなかったために、100円あれば子供のお腹が充分に膨れるほどの量のお菓子を買うことが出来た。

その頃の消費税はまだ3%だった。

たった1円玉3枚で

10歳になる年の新学年の始まりと共に消費税が5%になった。

その頃から、100円でそれまで買うことが出来ていたお菓子が、100円以上(103円とか)ないと買うことが出来なくなった。

お小遣いをもらえるようになってからずっと通い続けていた駄菓子屋やスーパーのおばちゃんは、例え100円を1枚と1円を3枚渡さないと買うことが出来ないお菓子でも、100円玉1つを渡すだけで僕の小さな手へとそのお菓子を手渡してくれた。

まだ純粋だった子供の心は、今になっては顔もほどんと覚えていないこのおばちゃんたちの行いにより、それはそれは救われたことだったであろう。

子供は救われたが、そのおばちゃんやそのお店はどうだったであろうか。

たかが小さな子供1人が出来る最大限の買い物だ。

たかが1円が3枚足らないだけだ。

「お菓子を手にして走り去っていく子供の後姿を見ることが出来るのならそれでいい。」

と、思っていたかもしれない。

「本当は3円足らないんだよクソガキ!いつも買い物に来る母親に言っとけ!」

と、思っていたかもしれない。

1度に3円足らないだけの買い物が何日も何日も続けばどうなるのか。それが僕以外の子供も多数体験していたことであればどうだろうか。

「このクソガキ!」

と思えてくる経済事情になるかもしれないのだから、マイナスな感情が沸いてくるのも無理はないと思う。例え口には出さないとしても。

幸いにも、僕がおばちゃんたちから心無い一言を言われたことは一度もなかったので、当時の僕は毎日が笑顔だったことだろう。お菓子を手にし続けることが出来ることで、子供の心が救われ続けたことには変わりなかったのだから。

お金のない世の中

「お金がなかったら世界は平和なのに。」

まだ10歳にも満たない子供が行き付いた考えはこれだった。

お金が存在することで発生していることとして、当時の僕は以下のように考えていた。

  • お金というものがあるから、それをたくさん手にする人と手に出来ない人とにわかれてしまう
  • お金を手に出来ない人は貧しい暮らしをしなければいけない
  • お金がない家の子供はお菓子を買うことが出来ない
  • お金がない人は死んでしまう

当時の僕の周りには、流石に「お金がない人は死んでしまう」に該当する友達や家族はいなかったが、教科書を目にしたりテレビのニュースを見ることで、そういった人たちがたくさん存在すること程度になら知識として頭に入っていた。

4年生当時の担任の先生がそういう話をよくする先生であったので、それも手伝っていたのかもしれない。

そうしたこともあって、僕の心の中にはいつも、

「どうして世の中にはお金なんてあるんだろう。」

という感情が宿っていた。

お金がなければ

もしお金がない世の中になったとする。

小学4年生当時にそんな世の中になっていたならば、僕はお菓子を買えずに悲しんでいたことだろう。

だからそういう子供たちを無くすためにと、子供は1日100円分のお菓子をもらうことが出来る。

子供にお菓子を譲り渡したお店は、その分だけの何か生活の足しになる物をどこからか譲り受けることが出来る。

お菓子を製造している人たちももちろん、お店の人たちと同様に何かを譲り受けることが出来る。

お菓子を製造するために必要な材料を作っている人も、お菓子を製造するのに必要となる機器を作っている人も、みんなが同様に何かを譲り受けることが出来る仕組みだ。

もちろんお菓子に関連している仕事に就いている人だけじゃなく、この世のありとあらゆる必要とされる仕事に就いている人全員が対象だ。

現代風に言うならば、常に全ての人がウィンウィンな関係で以て成り立つ世の中。

実際のところ、もしそうなれば今の世の中は成り立たなくなるだろう。この何世紀かを地球に生きてきた人々が、そのような世の中にしてしまったから。

でも、それよりも前の時代であれば物々交換が成り立っていた時代だって存在しているのだし、そもそも物々交換というつもりで生活に必要となるものを交換していたわけでもない時代だって存在していたのだ。

完全無欠の世界平和論

例えば石器時代。

村単位でのコミュニティはあっただろうが、その村にいる男が全員でマンモス1頭を狩ってきて、村に住まう全員で食べる。老若男女関係なく、だ。

弥生時代にもなれば、稲作が始まり米食文化が宿り始める。稲作とは別に動物を狩ってくる者。魚を捕まえてくる者。獲れた食料全てを村の全員でわけて食べる。年齢や性別、それに個々人の体格等の違いで食べる量は左右されたかもしれないが。

現代のように、文明の利器はほとんど何もなかった時代だ。

そんな時代の方が、人と人が協力し合って生活をしていたんだろう。

そんな時代には、現代のように人を破滅へと追いやってしまうお金なんてものは存在していなかったのだ。

「貧しい」とか「貧困」なんて概念すらもなかったのだろう。

今の世の中には、お金なんてあるところには掃いて捨てるほど存在しているのに、それでも貧困により死んでいく人が1日何万人といる。

そしてそんなことは関係ないとばかりに、裕福な人たちは亡きがらの上で必要以上に食を楽しみ、必要以上に生活を彩り、必要がないのに人も動物も関係なく命あるものを殺す。

小学4年生でも考えることが出来る世界平和論なのに、所詮は夢物語なのだろう。

どんなに甘い考えでも、どんなに偉い学者が唱える世界平定文書でも、きっともう今の世の中と、これからの世の中には通用しない。

小学4年生の僕はある日、こう考えたことを今でも覚えている。

「お金じゃなくて人がいなくなればいいんだ。」


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