ありがとう、と君に言われると

Takenori自身がこの記事を読み終わるまでにかかった時間は約2分です。

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先週に続き今週も雨の日が多かった。

外に出る、という行為が中々に億劫になる日が続いたけれど、それでも週に1回以上はロードバイクに跨り足に刺激を送る。

片道15分程の道のりを、少し体に負荷がかかる程度の速さで走り抜ける、運動も兼ねた僕の気分転換だ。

ストレッチでも、筋トレでも、ランニングでも、そしてロードバイクでの疾走でも、体を動かすということは必要不可欠なことだと、改めて認識させてくれる。

向かう先がある、というのは目標にもなるし、たとえどんなに小さくても目標を達成することが出来たという感情が芽生えるのであれば、それは生きていく上で成長をする糧になる。

2週間前から、僕の向かう先は友人の元となった。

友人という存在

昔の話をするようになって、改めてわかったこと。

その中の1つに、友人と出会ったのは3歳か4歳の頃という、とても幼い頃であったということがある。

ということは、出会ってからもう27年も経っている、ということになる。同じ地元の同じ保育園に入園したのがきっかけだ。

そんな昔の話でも、お互いに共通して覚えていることがあるということに、不思議な感情が芽生えてしまう。

園内の片隅で泥団子を作っていたこと。

ティッシュに絵具を澄み込ませて作った工作品のこと。

夏はプールが楽しみだったこと。

保育園児と言えども、やはり給食の楽しみはカレーだったこと。

毎日もらえる一粒の肝油が甘くて美味しかったこと。

そんなことの1つ1つを、同じ記憶の元で話すことが出来る友人という存在と、そんな友人がいるということに、なんだか嬉しさと幸せを感じずにはいられない。

ありがとう、と君に言われると

ありがとうと、と君に言われるとなんだかせつない。

そんな、宇多田ヒカルの唄にあるような歌詞と全く同じ感情というわけではないけれど。

友人のため、と思って行っていることでもないことに、ありがとう、なんて言われるとせつないというか、なんというか。

きっと友人にとっては、自身の長い入院生活によって訪れた身体能力の低下と、それを補うための日々の散歩兼リハビリに付き合うために、僕が友人の元を訪れている、と思っているのかもしれない。

一切何も口に出来なかった、ほとんど動くことすら出来なかった長い入院生活が終わったあとも、生まれ育った故郷と両親の元で療養する自身の元へと来てくれて、と思っているのかもしれない。

退院して、何か口に出来るようになったらコーラのペットボトルのキャップをプシュッと開けて、ゴクゴクと飲みたいと言っていたのを覚えていてくれて、いつもお菓子と一緒に買って持って行く僕に対して、抱いている感情なのかもしれない。

他にも、もしかしたら僕の感情が及ばないところで、友人には友人の思うところがあるのかもしれない。

だから、いつも去り際になると決まってありがとう、と言ってくる。

ありがとう、なんて言われることは何もしていないのに。

プライベートでもビジネスでも、決まって交わされるありがとう、という言葉。形式ばった使われ方がされることが多くなるのが、日本の、そして人間の社会というものなんだな、と気付いたのは、もう随分前のことだ。

友人からのありがとう、という言葉には、不思議な感情が宿っている。それは27年来の付き合いや、小学校、中学校、高校と長年共有してきた楽しみ苦しみがあってこそのものだろうことは、30年も生きていれば理解している。

こちらから言える機会があるように、病気なんかに負けず、生きてほしいと思う。

生きていてくれて、昔のことはもちろんこれからのことを話すだけで、楽しいし嬉しいし、なによりも幸せだと思えるのだから。

ただ生きているだけで、ちいさなありがとうを交わす機会はたくさんある。


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