外国人に日本語を教えるということの難しさ

Takenori自身がこの記事を読み終わるまでにかかった時間は約5分です。

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最近、自分という人間に対して、

「色々なことをしてるなぁ」

と思うようになってきた。

友人からは

「変わっている」

と言われ、その理由を聞くと

「変わったことをしてるし、人間性そのものも昔から変わってる」

と言われた。

日本語というもの

日本語を母語としない外国人が、日本語を学び取得するための試験に、N1からN5までの各数字別による難易度で能力を計る日本語能力試験というものが存在する。

7年程前、海外青年協力隊の試験には日本語に関する試験も存在していることを知ったが、当時は日本語の試験なんて楽勝だろう?と高を括っていた。

日本で育った日本人であれば、そう思う気持ちもわかってもらえると思う。

常日頃から、日本語を話す人に囲まれながら、自分だって日本語を話すことで生活をしてきたのだから。

蓋を開けてみれば、日本語の試験はギリギリで合格する程度に終わってしまった。

日本人にとっても、日本語の試験とは難しいものなのである。

外国人に日本語を教える

ある程度の日本語を読み書きし、聞いて話せるくらいの日本語能力がある外国人には、改めて敬意を表さなければいけないと、最近になって考えるようになった。

そしてその外国人が日本語を学び始めてまだ数年で、日本人にとっても難しい、あるいは完璧な回答ができない日本語の問題に取り組んでいるともなれば、それは尊敬にすら値する。

ましてやその外国人は自分より10歳も年下の、二十歳の大学生なのだから。

先日、知人から紹介された二十歳の張さんは、あくまで僕が推測する上ではお金持ちの家系なんだろうなということが見え隠れする、10年に1人の美女と言われている橋本環奈、に似た幼馴染を持つことがわかった、台湾からの留学生だ。

ちなみに張さん本人はお笑い芸人の「ずん」の「飯尾」に似ている。張さんの性別は女性だ。女の子だ。

「張さんってずんの飯尾に似てるね。知らない?スマホで検索してみて」

とは天と地がひっくり返っても言えない、言ってはいけないんだ、という試練を自分に課している。

そんな張さんに日本語を教えるハメことになったのだが、なかなかどうして、張さんの日本語能力は素晴らしいの一言に尽きる。

それもそのはずで、日本語能力試験をこれまで受けてきた張さんは、まだ合格していないのは最難関であるN1だけというレベルにまで成長している、英検で言えば準1級は合格して残すは1級のみという、レディーガガなのだから。

ちなみに日本語能力試験のN1の問題例は以下だ。

日本語能力試験-JLPT/N1

自分が使う日本語には、

「正しい日本語を」

というある種のプライドを持っている僕でも、N1は難しいと思える内容であった。

いい年して、ビジネス上でのやりとりにおいても敬語のなんたるかをまるでわかっていない程度の日本語能力しか有していない現代の日本人には、満点をたたき出すどころか合格することさえ到底無理だろうと思うほどのレベルである。

例えばこれ。

日本語能力試験N1の問題例

最初の一文を呼んだだけで、フフッと微笑してしまった。

さて、問題は上記の文章を読み、「機械を見習ったらどうだろう。」という問いに対する答えを4つの選択肢の中から選べ、というものであった。

そして4つの選択肢とは以下のようなものだ。

日本語能力試験N1問題例の問と答え

確かに、ある程度の日本語能力があればわかるレベルの問題ではある。

しかしだ、問題の問題は別のところにあるのではないだろうか。もはや日本語能力という枠を飛び越えていると思うのは、僕だけであろうか。日本という国そのものを問題にしているようにさえ見える。

暗に、

「日本語を学びたいという日本を愛する外国の人々に、日本の現状を知ってもらうことで日本の将来をどうにかしてほしい」

という希望と絶望の表裏一体な気持ちさえ、伝わってくるようでもある。

「日本人は機械を見習うのですか?機械のように仕事する?」

と張さんに聞かれた僕は思わず笑ってしまい、その笑いがしばらくは止まらなかった。

張さんに

「変わった人ですね」

と言われてしまった。

日本語は難しい

本を読んでいると、この年になっても初めて目にする単語が出てくるときがある。そんなときには必ずメモを取り辞書を引く。

「日本人の知らない日本語」シリーズである本を全巻揃えて愛読するほど、日本語というものに愛着と知りたいという欲求を持っている。

1人称を吾輩と記載する時代の古い本でも、丹念に読みたいという感情の元からバカにならない費用を出して古本を購入することもある。

そんな僕でさえ、日本語は難しいと思っている。日本語を知れば知るほどその気持ちは膨れ上がる。

むしろ悲しいまでに愚かな日本語しか使えない人の方が、日本語を簡単だと捉えていて、なんなら自分のことを潜在的に日本語マスターくらいに思っているだろう。

張さんと顔を合わせながら話をしたり、メールでやりとりをしている中で彼女が使う日本語から伝わってきたのは、日常での会話においては少し違和感を抱いてしまうが、本来であればそれが正しい日本語なんだろうな、ということだ。

小さい頃から日本語を聞いて育った日本人と、日本語を母語としない外国人の人が勉強して学ぶ日本語には、決定的な差が現れるということもわかった。

その差とは、

「日本語を本気で覚えようとしたかどうかが伝わってくる日本語を使う」

というもの。

日本だと、小学校から本格的に日本語というものを国語という科目として勉強し始める。だがそれは義務教育だからであって、そこに熱意はない。

しかし外国人が日本語を勉強するという背景には、理由は人それぞれあるだろうが、ほぼ全ての人に共通して熱意は持っているだろう。その量はこれまた大なり小なりあるだろうが。

勉強に限らず、熱意を持って取り組み身に着けた知識や能力というものには、その熱意が必ず現れる。

その熱意が見て取れるのであれば、こちらとしても相当する熱意で以て対応するというのが、日本人の魂、云わば武士道と言うものだろう。

そんな現代日本で口にすれば恥ずかしいことも、張さんと接する中で恥ずかしいと思う必要はないということを教えられた。

それでも、大きな音を立てながら蕎麦やうどんをすすって食べるのは、どうしても恥ずかしいらしい。

 

 


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