来世はあるかどうか

Takenori自身がこの記事を読み終わるまでにかかった時間は約3分です。

スポンサードリンク


学生時代の友人たちが、若くして次々と亡くなっていくこと。

3月初めに「死ぬときに後悔すること25」という本を読んで考えたこと。

死ぬときに後悔すること25

それは、来世はあるかどうか、ということだ。

来世とは

ここで言う来世とは、日本に住まい生きてきた人だからこそが考え得る、所謂、宗教的だったり土着的だったりな来世ではなく。

現実的にあり得るのかどうか、という観点での来世である。

僕自身、神の存在など信じてはいないし、もちろん宗教というものの中にある救いのなんたるか、なんてこともこれっぽっちも信じてはいない。

身に降りかかる善い事悪い事の全ては、自身が歩んできた道、考え行動をしたことで訪れた今だと、そう考えている。

そんな僕が来世について考えるときに、都度襲い掛かってくる疑念というものがある。

それは、

「現実的な来世を望んでいるということは、土着的・宗教的来世を信じているということではないのか」

ということだ。

若くして亡くなってしまった友人たちや、志半ばで亡くなってしまった知人たち、そして昔を共に過ごしたペットたち。

そうした存在に対して、どうしても願ってしまうことがある。

「短い時間しか生きることが出来なかった分、次に生まれたときは幸せいっぱいな時間をたくさん過ごしてほしい」

と。

もし、次があるのであれば、その次が現実的に起こり得ているのであれば、この世界のどこかで、あのとき死んでしまった誰かがもう一度今を生きているということになる。

そして現実的に起こり得ていることかどうかは、誰にもわからない。

ということは、結局のところ来世というものは、人が信じるものの中にしか存在していないのではないか。

それこそ、宗教的来世というものが、来世の全てを司っているのではないのか。現実的に存在しているのかどうかの判断がほぼ確実につかないが、だがそこに存在していると説くことで、あたかも存在していると信じ込んでしまう来世。

言ってみれば、存在しないものを造り上げ想像させることで用意されたのが、来世というものではないのか。

来世を信じる人は死を恐れない

いよいよ目の前に寿命が迫っている。

そんな人にとっての来世とは、それはそれは重要なものだということを、「死ぬときに後悔すること25」を読んだことで学んだ。

来世を信じている人は、死の間際になってもあまり死を恐れない傾向にあるらしく、「来世でまた会おうね」の一言で気が楽になるとのこと。

それとは反面、来世を信じてこなかった人、更に言えば宗教というものを信じてこなかった人というのは、その多くが死ぬ間際になると恐怖を覚えるのだという。

自分という存在がこの世から消えて無くなるということに、それまでに歩んできた自分の多大なる時間は何だったのかと、そう考えるのだろう。

改めて自分に当てはめてみてもそう思う。たった30年しか生きてはいないが、それでも30年の歳月をこの体と心で生きてきた。それが、もし次の瞬間に無くなるとすれば。

「今まで生きてきた時間は何だったのだろう」

と、そう思えてしまう。

残念なことに、自分以外の他者に対する来世は現実に起こり得てほしいと考えているのに、それを自分を対象として考えると、来世なんてあるハズがないと、どうしてもそう考えてしまう。

前世を生きていた記憶があるとしたならば、来世も簡単に信じることが出来ただろうけれど。もちろん前世の記憶なんてものは持ち合わせていない。

来世があって欲しいと願う反面、信じ切れないという現段階では、来世は存在しないと結論付けるしかないだろうか。

もしもいつか、先に亡くなってしまった人たちが姿かたちを変えた存在として目の前に現れ、

「久しぶり、元気だったか?そういえば~」

なんて風に自分と相手のみが知っている話題でも振ってきてくれたなら、そのときは来世を信じることにしようと思う。


スポンサードリンク

ヒトゴトの他のブロガー

スポンサ-ドリンク